戦前はカツ屋を営んでおりましたが、1950年(昭和25年)に先代の女将 藤江婦美子により蕎麦屋『角平』として
創業いたしました。
『角平』の由来は「平沼の角にあるから」と実に単純なものです。
初代は竹を割ったような性分で、店の名付け通り明快な発想を好む人でした。
蕎麦を愛する初代は日ごろから「もりそばではもの足りない、天ぷらそばではそばが死んでしまう。」と考えており、
しこしことした蕎麦と衣がふやけずにおいしく食べられる天ぷら【海老も蕎麦も活きるものはできないか】 と研究を続けてきました。
研究なくして革新なし。連日苦慮を重ねました。
そしてついにある考えに辿り着いたのです。
「いっそ、そばと熱い汁を別々にしてはどうか」
その瞬間、全国の天ざるや天せいろの祖となる【つけ天】が誕生しました。
ですが当初店の職人は「邪道だ」と大反対。
しばらくは賄いとしてや知人に食してもらうなどしておりましたが美味しいという評判が徐々に広がりました。
そうして昭和35年に満を持してメニューに加えたところたちまち当店の看板メニューとなりました。
昭和34年頃県庁の方のご紹介で初代自民党副総裁の大野伴睦氏がご来店くださいました。
親分肌で知られる大野氏と初代女将は義兄弟の杯をかわすほど昵懇の仲となりました。
そんな折1人の紳士がふらりと当店を訪れました。
どこかでお見かけしたお顔だと思っていると、なんと当時の岸信介総理。
箱根静養に行く途中、大野氏のご紹介により当店にお立ち寄りくださいました。
こんなエピソードがあります。
黒塗りの車を交叉点の角にとめていたため、お巡りさんが店に来て、
「あの車をどかしなさい」
「でも、お客さんの車ですから」
「お客にどかせるよう言いなさい」
「大変ですよ…、総理大臣なんですよ」
「はいはい、総理大臣でもなんでもいいから、どかせなさい!」
ですが本物の総理大臣とわかり、戸部署から大勢の警官がすっ飛んで来たそうです。
以来岸氏は何度も当店を訪れ、その紹介で重光葵 元外相も来店してくださいました。 重光氏はそれからまもなく死去したため、店には、彼を悼んで岸氏が書いた「一椀蕎麦に旧友を憶ふ」という直筆の色紙が残っております。
高度成長期には三菱ドック(現在のみなとみらい地区)は出前のお得意様であり当時は出前専門の配達員だけで10名近くおりました。
2代目女将も当時は蕎麦の乗った台を肩に担ぎ出前をしていました。
平成になり横浜ランドマークタワーが建設されていた頃は毎日のように「天丼100杯、かつ丼50杯、牛丼120杯」などの出前の注文が
はいり当時は出前用の車で配達しておりました。(*現在出前は行っておりません)
ランドマークタワーの完成と同じ頃当店も店を改装いたしました。 とはいえ柱の位置もそのままで創業当時の趣を変えておりません。
これからも沢山のお客様に喜んでいただけるように初心を忘れず また日々精進しながら看板を守っていきたいと思っております。
今後ともご愛顧いただきますようよろしくお願い申し上げます。